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株式会社石神製作所はものづくりを専門とする未来創造企業です。

TEL. 0198-23-4843

〒025-0036 岩手県花巻市中根子堂前38番地

阿部千一略歴HEADLINE

回花仙史

明治26年(1893年)11月23日 岩手県稗貫郡湯口村大字中根子
          晁、テルの長男として生まれる
          仮死状態で生まれ、奇跡的に息を吹き返したという
          ことから、千一と名付けられる
明治32年(1899年)4月 湯口村立中根子尋常小学校入学
明治36年(1903年)4月 花城尋常高等学校小学校高等科入学
明治40年(1907年)4月 盛岡中学入学 寄宿舎入寮
            3年の時、2年後輩の宮沢賢治さんと
            花巻ということで同部屋(1学期)                                    北海道大学代6代学長 島善鄰氏と同期卒
            余談
            教師の排斥運動を展開し、級長という立場の為
            一時、責任を取らされ退学処分を受けるが後卒業
明治45年(1912年)3月 盛岡中学卒業 9月 第一高等学校入学 大学予科第一部入学
            余談
            第一高等学校の校長が新渡戸稲造先生のため、(途中交代)
           、同郷のよしみで、ご自宅へよく遊びに行かさせてもらい、
            薫陶を受ける機会に恵まれた。
大正4年(1915年)7月 第一高等学校卒業 9月 東京帝国大学法学部政治科入
            余談
            学生時代、同郷の原敬総理主催の岩手県の方々を集めた食事会へ
            参加し、首相官邸に初めて入った
            同級 福本和夫氏橘孝三郎氏宮崎龍之介氏,三鬼隆氏
            宮崎龍介氏芦田公平氏、などなど
            一年先輩に菊池寛氏、久米正雄氏、倉田百三氏、矢内原忠雄氏、小野清一郎氏など
            久米さんとは部屋が隣だったこともあり、スポンジ野球などをしてよく遊んでいた。
            矢内原さんは、新渡戸校長が退官するのを反対し、泣きながら演説をしたことを記憶し            ています。小野さんは、中学時代からの先輩。
            2年先輩 山本有三氏近衛文麿氏(学習院から転向され、1年だけ殆ど面識なし)
            後輩内村裕之氏 岸信介氏などなど
大正8年(1919年)7月 東京帝国大学卒業
            朝鮮総監水野練太郎の秘書守屋栄夫の秘書となる
大正9年(1920年)10月 高等文官試験行政科合格
大正10年(1921年)2月 朝鮮総督府事務官に任命される(高等官7等9級)
大正12年(1923年)2月 朝鮮総督府道理事務官高等官6等6級
            平安南道学務課長 当時、                                        盛岡中学時代に排斥をした方が、朝鮮の学校への職員採用に応募するという驚くような            事に遭遇。教頭の席が空いていたので、そこに任用すべく、申請していた最中に、その            方が腸チフスにかかり、死去され、対面し驚かそうと思っていたが、実現しなかった。
大正14年(1925年)2月 朝鮮総督府事務官高等官5等7級
31歳          慶尚南道財務部長
昭和3年(1928年)3月 朝鮮総督府事務官高等官4等5級
34歳          咸鏡北道警察部長
昭和6年(1931年)1月 朝鮮総督府事務官高等官3等4級
            江原道内内務部長
         9月 平壌府尹(市長)高等官3等3級
昭和9年(1934年)11月 朝鮮総督府道事務官 高等官3等2級
40歳          慶尚北道内務部長
            母テル死去
昭和10年(1935年)5月 欧米各国の行政視察を命じられる
昭和11年(1936年)1月 視察を終え、帰国
昭和12年(1937年)3月 晁(湯口村 村長)死去
43歳       5月 慶尚南道知事就任(高等官2等2級)
昭和13年(1938年)9月 退官
44歳          日本産金振興株式会社 理事就任
昭和14年(1939年)6月 朝鮮金山開発株式会社 社長就任
昭和15年(1940年)4月 玉渓金山株式会社 社長就任
            勲四等旭日小綬章 授与される
         8月 朝鮮産金買入株式会社 社長就任
         10月 合成鉱業株式会社 社長就任
昭和18年(1943年)4月 産金関係4社の社長退任
49歳         日本産金振興株式会社 理事退任
         12月 朝鮮林業株式会社 社長就任
昭和20年(1945年)7月 朝鮮山林会連合会長 就任
         8月 終戦
        10月  朝鮮林業株式会社 社長 退任
            朝鮮山林連合会 会長 退任
        11月  故郷へ引き揚げ
昭和22年(1947年)5月 岩手県副知事就任
53歳          国土開発法の第一号となる日本版ニューディール政策を推進
昭和26年(1951年)5月 岩手県副知事再任
57歳        9月 副知事辞任
         10月 衆議院議員当選
         12月 岩手県総合開発顧問を委嘱される 
昭和28年(1953年)3月 衆議院解散(バカヤロー解散)
59歳       11月 北奥州地域総合開発審議会委員を委嘱される
昭和30年(1955年)4月 岩手県知事当選
61歳          チリ地震津波発生とその対応など
昭和34年(1959年)4月 岩手県知事再任
            沿岸大火の発生と対応など
            公務中倒れ、入院
昭和38年(1963年)4月 任期満了に伴い退任
昭和40年(1965年)11月勲三等旭日綬章 授与される 
昭和47年(1972年)9月3日 脳軟化症にて死去
              正4位に叙す。             
             戒名「大光院殿智岳秀清居士」

回花仙史随談(ラジオ岩手編)の序文より

後藤文夫 氏


田島道治 氏


御手洗辰雄 氏


文中より
菊池寿人旧制一高校長先生
 生涯独身であったことから、逝去後卒業生が
 お墓を大慈寺に建立し、埋葬


みちのく山野草より抜粋を以下に

この阿部晁の息子には長男千一や末弟末吉なる人物がいる。二人とももちろん花巻の出身だが、ともに賢治の盛岡中学時代の先輩でもある。
阿部千一 
 「いわて人国記 」によれば
 千一は賢治より三級上で、賢治が盛中に入学して寄宿舎入りした時、その十二室の室長だった。後年十三歳の新入生賢治を回想して「自分からさきに立って、ランプを掃除するような生徒であった。別に室長である自分が言ったからではなかった」(筑摩書房「宮沢賢治研究」)と書いてある。
 賢治が四年の時、寄宿舎では舎監の排斥運動が起こり、リーダー格の千一は盛中を退学した。賢治らは彼の復学運動を始めたが失敗に終わり、千一は単身上京、のち東京帝大法学部に進んだ。
                《昭和50年6月10日付け讀賣新聞岩手版》より
そして後に千一は岩手県知事を務めた。

阿部末吉 
 一方、末吉も盛中の一級先輩であり、そこの寄宿舎自彊寮で同室になった際のことを前掲『人国記』において
「当時の盛中では、一学期ごとに寄宿舎の部屋替えをしていたので、いつだったか、私も賢治さんと同じ部屋になったことがあった。ある日、彼が私にいたずらっぽい笑いを浮かべながらこんなことを言うんです。小遣い銭に困った時、町の共同便所を壊してしまったので弁償しなければならないとおやじに言ってやったら金を送って来た―。普通の生徒なら、本を買う金がないと言うところなんです。茶目ッ気のあった賢治さんはいつもこんな調子でね―」
                《昭和50年6月10日付け讀賣新聞岩手版』より》
と語っている。末吉は後に東北大学教授、そして岩手大学に応用化学科が新設された際に招かれて教授を務めた。



阿部末吉論文



               
阿部千一の父 阿部晁
湯口村

阿部晁
暁烏敏 氏
鉛温泉スキー場



阿部千一

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